わたしはくまです。

ギリホリで渡航し、ロックダウン中のニュージーランドにいる私が、これまでの経験(数多くの失敗談!?)や身近な話題を誰かと共有すべく綴っていくブログです。ブログ名は約7か月お世話になっているホストファミリーの子どもたちがなぜかお気に入りの日本語です:)

リバー・ランズ・スルー・イット

おはようございます。

今日は早起きな私が朝一のブログをお届けします。

 

今日のブログの題名になっているのは、私が最近観た映画のタイトルです。

最近の映画にあるような、派手な暴力シーンや戦闘シーン、セクシーなシーンもないですが、生活を感じることが出来たり、人生について考えさせられたりする綺麗な映画でした。

 

原題をそのまま訳さずに用いたのも素敵だなと感じています。日本語にしてしまうと、物語が身近に感じられないような気がして。映画で描かれている生活は日本のそれとは少し違いがあって、川は身近にあるものだからそこのギャップが協調されるイメージ。

英語の原題をそのまま使うことで、どこかの川を舞台にしたある人の生涯についてのお話という印象がもてる気がする。そして自分の人生との重なりを感じ、映画を楽しむことができるのではないかなぁ。。。翻訳者がそこまで考えていたかは謎だけど( ´∀` )

 

この映画を観て感じたのは、

①子育てにおける親の役割は子どもに生きていくために必要なスキルを教えること。

最終的な自分の未来への選択の権利とその選択による責任は子どもが背負う。過度な期待やありのままを受け容れない否定的な親心は、不幸な選択や偽りの人生を結果的に助長する可能性がある。

②人は誰でも幸せになる権利も方法も持っていて、どのルアーを使い、いつ、どこで、誰と、どう釣りをするか、どのようなふるまいをするか、その一つ一つの選択の積み重ねで将来が変わってくる。

 

親から人生の荒波を生き抜くスキルを受け取っていれば幸せだが、それがなければ自分で学ぶ他ない。親じゃなくても、教えてくれる人と出会うことができればそれもまた幸運なことだろう。もし自分でスキルを身に着けて幸せを掴み取ったとすれば、その人は他の人に教えることができるだろう。そういう意味では、他人と比較しない限り、自分が不幸と認めない限り、不幸せな人なんていないのかもしれない。

 

また、川が止めどなく流れているように、自分は変化を求めていなくても、今この瞬間が幸せでもそれは努力しないといつか状況は変わってしまうし、収穫のない憂鬱な日々が続いても川の流れは自分の幸運を後押ししてくれるものに変化するかもしれない(待っているだけでは何も得られるはずはなく、最低限魚めがけて釣竿をなげることはしないといけないけど...)。家族や兄弟、友人、恋人だっていつまで一緒に釣りができるか分からない。

変わってほしくないことがあるなら、変えたいことがあるなら、どっちにしても何かしら動くしかないということらしい。常に私たちは誰の間も平等に流れる川の流れの中にいるのだから。

 

まじめか(*´ω`*)

ではまた

私の休日旅〜川端通り散策編〜

実は、後編もあるんです(*'▽'*)

今回はほんと歩いただけ笑笑

午後からは天気も良く、街中を散策⭐︎f:id:yunbovodnuy:20210531003352j:plain


綺麗な風景写真を撮るはずが、食い気に負けてついこんな写真も♪

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子どもの頃の思い出の味、大判焼き(*´꒳`*)

でも今日はお気に入りの味がなく、初めましてのコーヒークリーム。美味しかった!

けど、思い出ない笑笑


これなーんだ?

ヒントは、内川の川や

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正解はトイレ!!!

今日初めて知った!!


徒然なるままに書きけり。

木々の間を吹き抜けて、私の頬をなでる風も、

今日は心地がいい。

昨日までの、私の心を冷やしていたすきま風とは全然ちがう。

川の流れる水音も、草木のざわめきも、

今日は気分がいい。

耳障りなデジタル化された雑音とは全然違う。


1年前は何かが欠けてしまった街に見えたこともあった。

今はまたいつか一緒に歩きたい街になった。

私、大丈夫。ちょっと強くなった。


[今日の出会い]

この花は分かんないけど、綺麗な花で、

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この花は私が好きな花(*´ω`*)

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ではまた

私の休日旅 ~羽黒山編~

こんにちはー。

初めてunpublish機能を使ったyunです。

昨日自分で書いた最初のブログがネガティブ過ぎて、人様にお見せできるものではないと思い、公開を止めました。書いたものを出さないって初めてかもしれない( ´∀` )

 

そして今日は、本当の意味で休日を手にした私が雨の中、旅に出たのでご報告します。(旅といってもただの散歩♫)

普段占いは良いとこどりしかしない私が、「パワースポットいいよ」みたいに書いてあったのを見て、これだーーーー!!!と思い、早速おでかけ♪

せっかくの休日なのに、あいにくの雨でどうしよう(; ・`д・´)って思ってたけど。。。

英語教室で羽黒山の観光案内に関する勉強をしたのを思い出し、、、行き先決定☆

 

駐車場から本殿に向かう途中は人が少ない道を選んで、一人で満喫。

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霧がかっていて、なんだかスッキリしない私の気持ちのよう。

でも、神秘的な雰囲気でこれまた素敵。

 

偶然、蜂子皇子の特別展示があって、観てきました。お客さんが私だけだったので、スタッフの人が声をかけてくれ、

ス「何か分からないことはありますか?」

私「蜂子皇子が何をしたのかもよく分からないまま見ていました。」

ス「・・・。開山された方ですね。」

その後も色々な歴史について教えてくれました。今まで気が付かなかったところまで知ることができました。

 

聞いたお話を私が簡単にお伝えします。

~蜂子皇子におきた悲劇と功績~

 時は飛鳥時代。奈良に都があった頃、崇峻天皇を父にもつ蜂子皇子は蘇我馬子により父を殺されてしまいます。聖徳太子に匿われ、宮中を出るよう勧められ、逃げて北上し、羽黒山にたどり着きます。そこで厳しい修行をし、羽黒山の山頂に社を建てました。これが羽黒山神社の歴史のはじまりとなる訳です。

 山の麓の民へは稲作などの農耕の技術や薬草を用いた医学を教え、広めたそうです。

 

~羽黒の石段、杉並木を作った功労者の悲しい行く末~

 鎌倉時代には、当時の鎌倉幕府から追われる身であった源義経一行が、奥州藤原氏をたよりに平泉へ逃げる道中、かの有名な武蔵坊弁慶が羽黒山に参拝に訪れた際、あまりの急な斜面に奉納のため持っていた油をこぼしたという逸話もある「二の坂」が羽黒山にはあります。

 今でこそ石段ですが、昔は赤土で滑りやすく登るのも大変だったそうです。また、杉並木の大木が作り出す幽玄な景観は、現代になっても地元民のみならず、訪ねてきた多くの人の目を楽しませてくれています。

 さて、この石段を築き、表参道の杉並木を植えるなどの整備をしたのは天宥別当です。別当というのは高いくらいのお坊さんに与えられる地位でありました。蜂子皇子の絵を描き、その偉大さを後世まで伝えるような多彩な方だったそうです。

 世は江戸時代。そのような偉大な方の最後は伊豆にある島へ島流しの刑となり、そこで生涯をとじるという悲しいものでした。数多くの宗派や宗教が混在していた羽黒山を一つの宗教で統一し、整備しようと尽力したことが反発を生み、このような結末を迎えたそうです。・・・正義は人によって違うようです。いつの時代も人を動かすのは難しいものです。

 

~山伏と行者~

 山伏は修験道がはじまった奈良時代に山で修行をした修験者とも呼ばれる人たちで、簡単に言うところの職業のようなものであり、山岳信仰の広がりに伴い、その数が増えると、鎌倉時代には組織化の流れもありました。そのため、世襲も行われていたそうです。羽黒の観光案内でよく見る市松模様の衣装にほら貝を持っているのは羽黒山伏の正装とのことです。一定のステータスが保障された身分であったと言えるでしょう。

 行者は山伏より広い意味で「修行する者」を指す。白装束を身にまとっている人を見かけたことがある人もいると思います。山岳信仰の自然を敬う気持ちをもち、悟りへ近づこうと厳しい修行を重ねました。即身仏となる方々もおり、有名なのは湯殿山注連寺の鉄門海上人。加茂坂のトンネル工事をしたり、眼病に悩む人々のために自分の左目を龍神に捧げ祈願した人。自分が普通の人だと分かっているから修行をし、自然界の力を得て多くの人を救おうとしたのではないかと、故人へ思いを馳せる今日この頃。この人たちの活動が修験道のはじまりと言えるのかもしれません。つまり、行者が山伏ということもある。なんかややこしい(。-`ω-)

 

~出羽三山となった丑歳~

 羽黒山、月山に続いて湯殿山が開山されたのは、丑歳🐄。よって、三つの山が揃った出羽三山はじまりの歳なのです。

 丑歳には出羽三山の神様の御神徳が最も高まるとされ、お参りすると12年分の御利益を得られるとも伝えられているそうです。今日ここに来たのも何かのお導きかもしれません。

~お坊さんのいる神社?~

 明治政府により神仏分離令が出されるまで、日本では神仏習合という慣習があり、日本古来からある神道と、仏教をうまく調和させながら信仰していました。神社に仏像があったり、寺に鳥居があったりしたわけです。

 江戸時代最後の将軍 徳川慶喜の時代から、王政復古の大号令により神の末裔である天皇へ政権が返されました。明治政府には神道の影響を受けた人も入り、その人達を中心に宗教政策もはじまりました。それが神仏分離です。これまでの神仏習合の慣習をなくし、神道と仏教を区別しようとする動きです。各地では意図せず、仏教の排除や紛争になってしまったという思いがけない影響も出ていたようですが。

 羽黒山は開山してからお寺だったんですが、明治時代の神仏分離の時代の流れにて、神の山として神社となることを選択します。つまり、仏教ではなく、神道を選んだということです。仏様は安置できず、お坊さんは働けなくなりました。当時祀っていた蜂子皇子の御尊像は僧侶の服を着ておりましたので、昨年の御開帳までずっと人目につかぬよう隠されていたのでした。

 

 とまあ、私にとってはどれも興味深いお話でした(o^ ^o)

 

帰りは天気も良くなってきて、霧も晴れていました。

まるで私の気持ちのようだ!

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 おしまい♩

Stand by me~♫

こんばんは、というより、おやすみなさいyunです。

 

金曜ロードショーはスタンドバイミーでしたね(o^ ^o)

誰にでもある大人になりたい子どもの時期ですよね。

私もあの12歳の頃の友達は忘れられないですね。今は付き合いも特にないけど、自分の中では特別な2人ですね。私が勝手にそう思ってるだけだけど。

 

金管バンドで一緒で、あんなに仲良しになるなんて想像もしてなかった。でも私のミュージカル好きの原点も、大人への入り口に一緒に入ってくれたのもその子達だった気がします。

身体も大人になってきて、大人に近づいてること、自分という存在に気づきはじめる。そして、大人の用意したステージの上が自分の世界だったということに気づき始め、少し窮屈さを感じはじめていたあの頃。管理されないように新しい世界へ踏み出そうとするけど、舞台裏で大人には見えない自分たちだけの秘密の世界を作ろうとしているに過ぎない、そんなとき。

好きな子の話するのも、ブラジャーを初めて買いに行くのも、何をするでもなく下校時間まで学校にいることも、どんなくだらないことも全てに心を揺さぶられていた。

私もいつか書こう。

死体を見つけに行ったことも、たばこ吸って悪ぶったりもしてないけど。

いつか私がこの人生で母親になることができたら、あの少年のように私のスタンドバイミーを書こうと思う。その日が来なければ、そっと私の胸の奥にしまっておこう(*´꒳`*)映画と、12歳の私への敬意を表して♫

 

もう寝よ!おやすみ。

vaccineの語源を知る、そんな休日

こんばんは、yunです。

明日仕事なんですー。なんで悠長にブログなんか書いてるんだ!もっと勉強することがあるだろ!!

・・・でも、書いちゃう♡

 

あ、vaccineの語源は下のほうに書いてあるから、とばして読んでもOK!!

今日は「充実してたなー」という日でした。

①楽しみにしていた電話から一日が始まった♪

 正確に言うとカーテンを開けて天気がよいことを確認したのが本当のスタート♫

②おばあちゃんのシャワーのお手伝い

 最近の休みの日の日課(o^ ^o)

 自分で洗髪・洗身ができるようになったし、着替えもできるようになった

③弟の誕生日プレゼント探しで靴屋へ

 お目当てのスニーカー見つからず。。

④山へドライブ

 スキーやスノボを楽しんでいる人たちを懐かしいなぁと見つめる

 私のお供はスタバのキャラメルフラペチーノ

⑤夜は大学時代の友達とお茶会

 お子ちゃまが寝付かない!とのことで1人は参加断念

 

久しぶりに一人で外へお出かけする時間もあり、羽を伸ばすことができました。

明日は仕事、このまま飛びたちたい( ´∀` )

 

最近英単語の勉強をするときに語源を調べることにハマっておりまして、

②と③の間で、うちのおばあちゃんのワクチン接種の予約で電話かけたり、調べたりしたときにふと、「vaccine」の語源ってなんだ?と思いまして調べました。

 

昔、天然痘(smallpoxと英語で言うらしい)が流行したときに、乳しぼりをしている女性は牛痘(牛の痘瘡)にはかかるけど、重篤な天然痘にかからないらしいということを人々の経験から言われていました。

そして、ジェンナーという人が牛痘が天然痘の予防に効果があることを科学的に証明しました。牛痘によってできる液体を使って、子どもが天然痘にかかるのを予防することに成功したんです。

この出来事から、ラテン語で牛痘を意味する【Variolae vaccinae】が「vaccine」の語源になったのだそうです。

 

病気を病気で予防しようなんて、思いつく人それまでいなかったでしょうね。

治療とはまた違う視点で病気による死を減らす。

どの場面でも多角的な視点って大切ですね。

 

今ワクチン接種が少しずつ進んでいます。弱い病気で、強い病気の発症や重症化を抑える。

こんなご時世です。ぜひ、ワクチン接種後も、お体大切にお過ごしください。

そして皆様がそう遠くない未来で、会いたい人へお元気な姿をお見せできますことを心よりお祈り申し上げ、ブログを閉じさせていただきます。

なーんて最後は、現代の絶滅危惧種、大和なでしこ風な私でした。

父からの一言

こんばんは、yunです。

今日1日体調不良により、自分のやらなきゃいけないこと以外はほぼぐーたらして終わってしまいました。

なぜこれを書いているかというと、夜になり、ようやく痛みから解放されつつあるのと、どうしても忘れたくないことがあって書き残しておくためです。

 

「ここからまた考えていけばいい」

父の今日の名言です。は(・・?ですよね(笑)まあ、読んでみてください。

 

今日父と久しぶりにお出かけしまして、と言っても夜ご飯の買い出しとかですが。色々話していく中で仕事の話になりました。

正直に今の気持ちを話したんです。社会人になってから、私は正社員としてフルタイムの仕事をしてきた経験しかなく、今のパートタイムというポジションがすごく不安なこと、リモートワークで家のことも手伝えるし、ベンチャー企業でこれまでの日本的な勤務形態とは違うので楽しみな気持ちもあること、今の経験がこれからにどうつながってくのか、、、などなど

その話の中で出たのが上記の言葉です。

 

「ずっと今の会社に勤めなければいけない決まりはない。生活や収入の不安定さはあるかもしれないけど、仕事を続けていく中でこれからどうしていくか考えていく方法もある。嫌だ、やめたいと言いながら一つの会社にしがみついて離れられない人間だってここにいる。生活に困らない収入があれば生きていける。やりながら、ここからまた考えていけばいい。」

成人してからずっと同じ会社に会社員として勤めてきている父の説得力ある言葉でした。もちろん、一つの会社に長く勤めている父のことは尊敬しているし、それをしがみついているなんて私は思わない。父の自虐に過ぎない。でも、そんな父が転職を繰り返し、やりたいことにまっすぐ進んでいない人生の寄り道ばかりの私を否定もせずに、前に進めばいいと励ましてくれた。とてもうれしかった。

 

前にも

「コロナの流行で帰国したことからすでに想定外なんだから、思ってた未来と今が違って当たり前」

って言ってくれたこともあったな。

こんなはずじゃなかったとか、あのときの決断が間違っていたかなとか自分を責めたり、後悔の気持ちに押しつぶされそうになったり、何やってもうまくいかないって投げやりになったりしていたときだったから、やけにm心に響いたのを覚えている。

 

たまに何げない一言で、至極当然だけど私が見失っていることを気づかせてくれる。

ありがたやー( ´∀` )

もっと敬う気持ちを持たないと!!たまに髪の毛についていじっているなんて、何という親不孝者なんだ私は。。。

 

きっと今が頑張り時。ただ私の人生の天気予報がずっと雨なだけ。ここを乗り越えたらきっときれいな虹がみられる。っていうか、見に行く(笑)

このブログを書いている今も、誰かが自分の人生についてや、大切な人のことを想って考えを巡らせているかもしれない。涙を流しているかもしれない。私だけじゃない。

今までも十分頑張ってきたけど、もう少し頑張れる。少しだけね。笑

気持ちが折れそうなときもいっぱいあるけど。なんで外出するのー、今やらなきゃいけないことなのーって他の人にイライラもするけど。

私は大切な人たちをコロナに奪われていないし、またいつか前みたいに自由に会えることを信じてる。もう待つのは止めた。自分の道を行く。どの道を進んでも目指すものは変わらないから、きっとつながってる。

不器用で頑固で遠回りしかできない私だけど、きっと追いついてみせる。

ありがとう、父。

おばあちゃんと恋バナ

こんばんは、yunです。

今回は前回の続き、後編です。

 

なんで「おばあちゃんと恋バナ」??まずはそうなった経過からお話させてください。

私は高校卒業後から6年間、実家を離れて生活していました。その間に祖父がお星さまになりました。

パートナーを失ってから数年、おばあちゃんはどこか元気がなかったり、これまで専業主婦として毎日していた料理もやる気がでないのか惣菜が多くなったりなど、様子がおかしいと親から聞いていました。

6年ぶりに実家に戻ることにした私が思いついたのが、おじいちゃんとの思い出を聞くことでした。グリーフケアという考えの中で、故人との思い出を語ることもいいと聞いたことがあって、そんな感じのことができないかなーと考えたのがきっかけ。

ある日の午後、意を決しておばあちゃんにおじいちゃんとの馴れ初めを質問してみました。それが恋バナのスタートでした。

以来、たまにおじいちゃんとの思い出を自分から話してくれるようになりました。

 

二人は昭和の古き良き時代に出逢い、3年の交際期間を経て結婚したそうです。当時は親の決めた人との結婚やお見合いなどが主流の中、二人はなんと恋愛結婚Σ(・ω・ノ)ノ!

・・・私の知っている二人は、お酒とタバコについておばあちゃんに怒られ、言い返しているおじいちゃんという常に喧嘩しているイメージだったので、そんな時代もあったのかとびっくり(笑)でも今考えるとおじいちゃんが感情的なるのはおばあちゃんに対してだけだったなぁ(*´ω`*)

 

 

うちの祖父は家庭事情が少し複雑で両親とは同居せず、親の実家で育ちました。祖母の両親は当初、親のいない人との結婚はだめだと反対したそうですが、育ての親の協力より、理解を得てめでたく結ばれました。

出逢いは、今でいうところの職場が近かったということだそうで、お互いが奉公先で近所で、祖父がよく祖母が川で野菜などを洗っているところに馬で通りかかり、声をかけていくようになって親しくなったそう。馬で来ていたなんてまるでどこかの王子様じゃないか、ねぇ(*´▽`*)

うちの祖父はというと、普段は口数が少ないのに、スカートはひざ丈くらいがいい、パーマは毛先だけにして方くらいの長さがいいなど祖母の髪型やおしゃれに口を出す人だったとそうです。祖父自身は白いズボンや柄のあるシャツを着るなど周囲に比べるとハイカラだったようで。今日はおしゃれして来いとか、今日はこういう服のほうがいいとか祖母のファッションにもこだわりがあったらしい。

 よく近くの公園や神社のあたりの散歩をするのが定番のデートコースだったとのこと。きっとぶっきらぼうな祖父に代わり、祖母がしゃべりまくっていたんじゃなかろうか、と想像力を膨らませるのは、二人の青春時代を知らない孫の私( ´∀` )

 

それから貧乏をして、祖父は町の人に信頼される職人(?)になって、子育てが終わったら孫が生まれて、祖母は専業主婦として家のこと全部やって、二人は40年以上も連れ添っているのだから一つの物語のようだ。こう考えると、人生の大半を一人のパートナーと一緒に時間を共有できているのだから素敵なお話である。

 

 

おじいちゃんがお星さまになって15年。今日もおばあちゃんは枕元から見えるおじいちゃんの写真に「おはよう」と挨拶をしている。

では。