わたしはくまです。

ギリホリで渡航し、ロックダウン中のニュージーランドにいる私が、これまでの経験(数多くの失敗談!?)や身近な話題を誰かと共有すべく綴っていくブログです。ブログ名は約7か月お世話になっているホストファミリーの子どもたちがなぜかお気に入りの日本語です:)

私の休日旅 ~羽黒山編~

こんにちはー。

初めてunpublish機能を使ったyunです。

昨日自分で書いた最初のブログがネガティブ過ぎて、人様にお見せできるものではないと思い、公開を止めました。書いたものを出さないって初めてかもしれない( ´∀` )

 

そして今日は、本当の意味で休日を手にした私が雨の中、旅に出たのでご報告します。(旅といってもただの散歩♫)

普段占いは良いとこどりしかしない私が、「パワースポットいいよ」みたいに書いてあったのを見て、これだーーーー!!!と思い、早速おでかけ♪

せっかくの休日なのに、あいにくの雨でどうしよう(; ・`д・´)って思ってたけど。。。

英語教室で羽黒山の観光案内に関する勉強をしたのを思い出し、、、行き先決定☆

 

駐車場から本殿に向かう途中は人が少ない道を選んで、一人で満喫。

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霧がかっていて、なんだかスッキリしない私の気持ちのよう。

でも、神秘的な雰囲気でこれまた素敵。

 

偶然、蜂子皇子の特別展示があって、観てきました。お客さんが私だけだったので、スタッフの人が声をかけてくれ、

ス「何か分からないことはありますか?」

私「蜂子皇子が何をしたのかもよく分からないまま見ていました。」

ス「・・・。開山された方ですね。」

その後も色々な歴史について教えてくれました。今まで気が付かなかったところまで知ることができました。

 

聞いたお話を私が簡単にお伝えします。

~蜂子皇子におきた悲劇と功績~

 時は飛鳥時代。奈良に都があった頃、崇峻天皇を父にもつ蜂子皇子は蘇我馬子により父を殺されてしまいます。聖徳太子に匿われ、宮中を出るよう勧められ、逃げて北上し、羽黒山にたどり着きます。そこで厳しい修行をし、羽黒山の山頂に社を建てました。これが羽黒山神社の歴史のはじまりとなる訳です。

 山の麓の民へは稲作などの農耕の技術や薬草を用いた医学を教え、広めたそうです。

 

~羽黒の石段、杉並木を作った功労者の悲しい行く末~

 鎌倉時代には、当時の鎌倉幕府から追われる身であった源義経一行が、奥州藤原氏をたよりに平泉へ逃げる道中、かの有名な武蔵坊弁慶が羽黒山に参拝に訪れた際、あまりの急な斜面に奉納のため持っていた油をこぼしたという逸話もある「二の坂」が羽黒山にはあります。

 今でこそ石段ですが、昔は赤土で滑りやすく登るのも大変だったそうです。また、杉並木の大木が作り出す幽玄な景観は、現代になっても地元民のみならず、訪ねてきた多くの人の目を楽しませてくれています。

 さて、この石段を築き、表参道の杉並木を植えるなどの整備をしたのは天宥別当です。別当というのは高いくらいのお坊さんに与えられる地位でありました。蜂子皇子の絵を描き、その偉大さを後世まで伝えるような多彩な方だったそうです。

 世は江戸時代。そのような偉大な方の最後は伊豆にある島へ島流しの刑となり、そこで生涯をとじるという悲しいものでした。数多くの宗派や宗教が混在していた羽黒山を一つの宗教で統一し、整備しようと尽力したことが反発を生み、このような結末を迎えたそうです。・・・正義は人によって違うようです。いつの時代も人を動かすのは難しいものです。

 

~山伏と行者~

 山伏は修験道がはじまった奈良時代に山で修行をした修験者とも呼ばれる人たちで、簡単に言うところの職業のようなものであり、山岳信仰の広がりに伴い、その数が増えると、鎌倉時代には組織化の流れもありました。そのため、世襲も行われていたそうです。羽黒の観光案内でよく見る市松模様の衣装にほら貝を持っているのは羽黒山伏の正装とのことです。一定のステータスが保障された身分であったと言えるでしょう。

 行者は山伏より広い意味で「修行する者」を指す。白装束を身にまとっている人を見かけたことがある人もいると思います。山岳信仰の自然を敬う気持ちをもち、悟りへ近づこうと厳しい修行を重ねました。即身仏となる方々もおり、有名なのは湯殿山注連寺の鉄門海上人。加茂坂のトンネル工事をしたり、眼病に悩む人々のために自分の左目を龍神に捧げ祈願した人。自分が普通の人だと分かっているから修行をし、自然界の力を得て多くの人を救おうとしたのではないかと、故人へ思いを馳せる今日この頃。この人たちの活動が修験道のはじまりと言えるのかもしれません。つまり、行者が山伏ということもある。なんかややこしい(。-`ω-)

 

~出羽三山となった丑歳~

 羽黒山、月山に続いて湯殿山が開山されたのは、丑歳🐄。よって、三つの山が揃った出羽三山はじまりの歳なのです。

 丑歳には出羽三山の神様の御神徳が最も高まるとされ、お参りすると12年分の御利益を得られるとも伝えられているそうです。今日ここに来たのも何かのお導きかもしれません。

~お坊さんのいる神社?~

 明治政府により神仏分離令が出されるまで、日本では神仏習合という慣習があり、日本古来からある神道と、仏教をうまく調和させながら信仰していました。神社に仏像があったり、寺に鳥居があったりしたわけです。

 江戸時代最後の将軍 徳川慶喜の時代から、王政復古の大号令により神の末裔である天皇へ政権が返されました。明治政府には神道の影響を受けた人も入り、その人達を中心に宗教政策もはじまりました。それが神仏分離です。これまでの神仏習合の慣習をなくし、神道と仏教を区別しようとする動きです。各地では意図せず、仏教の排除や紛争になってしまったという思いがけない影響も出ていたようですが。

 羽黒山は開山してからお寺だったんですが、明治時代の神仏分離の時代の流れにて、神の山として神社となることを選択します。つまり、仏教ではなく、神道を選んだということです。仏様は安置できず、お坊さんは働けなくなりました。当時祀っていた蜂子皇子の御尊像は僧侶の服を着ておりましたので、昨年の御開帳までずっと人目につかぬよう隠されていたのでした。

 

 とまあ、私にとってはどれも興味深いお話でした(o^ ^o)

 

帰りは天気も良くなってきて、霧も晴れていました。

まるで私の気持ちのようだ!

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 おしまい♩