わたしはくまです。

ギリホリで渡航し、ロックダウン中のニュージーランドにいる私が、これまでの経験(数多くの失敗談!?)や身近な話題を誰かと共有すべく綴っていくブログです。ブログ名は約7か月お世話になっているホストファミリーの子どもたちがなぜかお気に入りの日本語です:)

母と娘。

 こんにちは、yunです。今回のブログは母に対する私のただのぼやきなので、興味深い内容にはなっておりませんことをあらかじめご了承ください。自分のために書かせてください。そして長文になるでしょう。 

 

 昨日、母と喧嘩しました。お互いに言い分があって、それを相手に理解してほしいけど、それをうまく伝えることはできない。というか、お互い伝えることしか考えてないから聞く耳を持たない感じ。言い合いにも、話し合いにもならず、この話は終わりと強制終了されるか、「はい、はい。私が悪かったです。」と無視されるかのどちらかで解決できない。私は話し合いをして、原因と解決策を見つけたい派なのでもやもやする。

 喧嘩の原因はいつもそこにある気がしていた。だから話し方を変えて相手の話を聞いて、自分の話を聞いてもらって話し合えるように…なんて試行錯誤してきた。でも、問題はそこじゃないってことがやっとわかった。

 私に必要だったのは、自分の気持ちを手放すことだった。

 

 今日私は一大決心で母の前に立った。「分かり合えなかったとしても、自分を責めなくてもいい。」・・・自分の母親と話すのに大げさって思うかもしれないけど、私にとってはそのくらいの覚悟がないと向き合えないのである。

 祖父母は大好きだ。私が中学生、高校生のときに何かでイライラして怒っても、向き合ってくれた(たまに言い合いになったり笑)。でもポジティブな言葉をいっぱいくれた。そして何より、話を聞いてくれた(というかしつこいくらい話しかけられた笑)。どんな私でもそのままでいいんだよって言ってもらっているような気がした。特に祖母には反抗期に反抗させてもらえたこと、感謝している。

 

 今日私は自分のせいで家族の役に立てなかったと落ち込むことがあった。また自分ダメ人間だなって思った。でも、違うよって言ってくれた人がいた。祖母もお姉ちゃんがいると安心すると言ってくれた。きっと自分で自分自身にそういう言葉をかけられる人になれば、私がなりたい、しなやかで強くて優しい女性になれると思った。

 私は今まで自分が母に認められることばかり執着していた。母の思い通りにならない自分を責めたし、思い通りになりたくない自分もいた。きっと遅れてやってきた親への反抗期だ(笑)

 自分のことばーっかり考えて母がくれたポジティブな言葉や母なりの愛情表現をたくさん取りこぼしてきたのだと思う。本気で母に嫌われていると思って生きてきたと言ったら世間では笑われるのだろうか。

 これまで私は母に自分が安心できる場所になってほしいと押し付けてきた。俗にいう自己中だ。それは他人に依存する生き方だ。私はそういう奴だ。それに気づけた。今日で卒業だ。すぐには難しいかもしれないけど、さよならする。自分で自分が居心地のよい場所を作っていくようにこれからは頑張るぞ、おー!と決めた。英語で言うところのinitiatve、昨日勉強したから合っているはず...たぶん。

 

 こんな決意のもと、母と話し合った。結果、やはり今の私はダメだった。直してほしいところを言われた。「でも母だって...、私はただ...」と言いたい気持ちをぐっと我慢できた。そしたら母の気持ちを少し聞くことができた。

 話し合いをするだけの気持ちの余裕が今はないそうだ。母の仕事が増えないよう私自身のことは自分で解決するようにと。母が話したいときに話を聞いてほしいし、頼んだ時に言われたことをやってくれればよい、余計なことはしないでほしいようだ。私がもつ知識も母にとっては余計なこと。お望みならば、物言わぬ貝になろうというのは自棄になった私のひねくれた心( ´∀` )

 「そこまで言わないと分からないのか」という母の察してほしいという気持ちに対しては、「思っていることがあるなら言ってくれないと分からない」と伝えることができた。母の気持ちを察することに努めて、「私のためになってない。余計なことをするな。」と不機嫌な顔をされるのは、ほとほと疲れた。言えてよかった。一歩前進。

 

 ここまで書いてきて気づいたことがある。私はよく年の割に気が利くと褒められることがあった。当然だ。この33年、家の中で自分ではない人の気持ちを察するよう努力してきたのだから。生活の中で磨き上げてきたんだ。いずれその道の師範代にでもなれるのではなかろうか。でもこのスキルでご飯は食べていけないかー、残念(ノ∀`)

 自分以外は別の人間だから、「これがよい。」といった価値観が私と違っていて当たり前。自分の「良し」が、「ダメ」のときもある。相手の基準と違うからNOと言っているだけで、どちらが悪いわけでも、間違っているわけでもない。信じることや考え方が違うだけ。私だって相手の価値観に合わないからといって自分を責めたり、正当化しようとしたりする必要はない。家族だから、無条件に私を受け容れてくれる、分かり合えるとは限らない。

 

 生き辛いなって思うこと、理不尽に感じること、これからもきっとたくさんある。自分だけは自分を見捨てないでいこうと思う。自分の気持ちにナイフを突き立てるようなことはあってはならない。例え思い描くような結果がでなくても、自分なりに努力をしたなら、「合格」をあげよう。もし自分に感謝している人が居たら、「はなまる」をあげよう。そしたら私はなりたい自分に近づけるはずだから。

では。